March 11, 2021
「スキマキペット抄」(『バナナ裁判』より)
人は生涯で、いったい何匹の動物と生活を共にするのだろうか? 私は皆が狂喜するほど、動物園のパンダに興奮したり、水族館のイルカに見惚れたりはしない。 私の彼は、「イルカは知能が高すぎて、集団レイプをする生き物だ」と言う。 一方イルカは、雌や権力を巡って、争ったり仲間を殺したりはしない、という。 これらは別に驚くべきことではなく、「イルカであればそれぐらいのことはしそうだ」と私は高を括っている。
私が最初に飼っていたペットはザリガニである。 天気の良い放課後や週末は、いつも決まって友人たちとザリガニ釣りに出掛けた。 ザリガニがもっとも食いつきのいい餌はザリガニである。 ザリガニは共喰いをする。 小さいザリガニで大きいザリガニを釣る。 その大きなザリガニで、さらに大きなザリガニを釣る。 門限を忘れてそれを繰り返す。 でも一番可愛がっていたのは、小指ほどの小さなザリガニである。 水槽を清掃するために外に出した小指ザリガニを、誤って踏みつけてしまい、はらわたが飛び出してしまった時、ジャクリーン・ケネディがジョン・F・ケネディの脳みそを拾おうとしたように、なんとかはらわたを詰め込もうとしたが、生きたまま死んでいるそれはどうしようもなく、安楽死を選んだ私は、まだ微かに動いているザリガニを、土へと埋めた。
今思い返すと、私は十代になる頃まで、不思議なことに、ペットに名前を付けていなかった。
私は落ち込んだり悲しいことがあると、子別れで知られる近くの史跡公園で過ごす。 そこには大きな木があって、私はそれを「もしもしの木」、と呼んでいる。 その木の下に眠るジャンガリアンハムスターは、風邪をひいて一年半で死んでしまった。 人は動物と暮らすとき、子供に先立たれる親の気持ちを疑似体験することになる。 神様は生きるものに等しく、同じ回数の鼓動を与えているのに、鼓動の早さが異なる私たちは、人が決めた物理的時間で計ると、寿命の長さが異なってしまう。 人の平均寿命は、下手すると中級のクジラより長い。 もしもしと名付けたハムスターは、しばしば夢の中で、ありえない大きさで登場し、私はそのもじゃもじゃとした彼のお腹に包まれて、眠る夢を見る。 もう空を飛ぶ夢を見なくなった私にとって、それが最高級の夢となった。
違う夢の中で、近所の野良猫が、二足歩行で歩く。 それは猫の願望なのか? 私の願望なのか? 夢はいつしか言葉を失っていた。 野良猫は私のそばまで来ると、ゆさゆさと私を揺すって起こした後、二本の足で歩くことが如何に困難であるかを物語るかのように、本棚に掴まり立ちをし、一休みしている。 四角で出会った時にこの夢の話をすると、その野良猫は少し、笑った気がした。 春が過ぎて、空梅雨だったせいか、あの夏は大変な水不足だった。 私を揺すって起こした野良猫は、もういない。